伝説の山岳古道を歩く・佐々成正の針ノ木越え(NO-2)

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8月11日 天候:晴れ後曇り 
行程:小南沢出合5:13 船窪沢出合7:29 針ノ木谷出合7:53 針ノ木峠11:36~12:52 
針ノ木岳13:54~14:09 針ノ木峠15:10

早起きして食事を済ませたが明るくなるのを待っているといきなりヘッデンがツウェルトを照らした。張り綱を引っ掛けない様注意を促そうと顔を出すと昨日の若者パーティーが登山靴のまま沢中をジャブジャブいわせ渡渉して来た。

体力に勝る若者の早立ちに感化されツウェルトを撤収し跡を追った。沢靴を準備していたが昨日此処まで3度の渡渉は靴を濡らさず来られたので以後も登山靴で通すことにした。

やがて道は沢から離れて100m程も高捲いた。足元を隠した草木の下は石が多く登山靴の選択は正解だった。明治13年に廃道届が出された古道は樵や猟師、立山信仰者等が利用し細々維持していたが平成19年に船窪小屋主人他有志によって古道は再整備され復活した。

1時間ほど歩いた高捲きの山中で休憩中であった若者に追いついた。彼等は東京のR大学山岳部で男女合わせ10人ほどいた。ザックの大きさは私の3倍ほどもあった。踏み跡程度の藪間の草木は朝露をたっぷり含んでおり彼等の露払いのお陰で濡れずに済んだ。

針ノ木岳南面の岩壁群の裾を赤目印に誘導されて進んだ。河原の大石の上で休憩していると先ほどのR大パーティーが追って来た。相変わらず登山靴で水の中をジャブジャブ、リーダーにザックの重量を聞くと35㎏ほどと言った。若いとはいえその重さじゃ飛石は無理だ。

船窪小屋主人は20代の頃当時建設中の関西電力黒四ダム建設現場事務所に勤務していたそうで小屋の切り盛りは奥様がしていた。毎週休日は此の谷から奥様の小屋へ荷上げをしていたそうだ。それが平成19年の古道復活につながったようだ。

針ノ木谷出合、此処で針ノ木谷は90°北に向きを変えて峠まで標高差約700mで一気に突き上げる。長めの休憩で行動食を頬張りながらR大パーティーを待った。いかに若者とはいっても担ぐザックに差があり過ぎで私は軽量化を優先し12㎏くらいに抑えた。

3m程の小滝が3ヶ所ほど有ってへつり個所などにはロープが垂らされていた。体力の衰えによるヘロヘロを除けば登山靴を濡らすこともなく順調に支障なく高度を稼いだ。

標高2000mを越えるといきなり谷水が消えて空谷を詰めた。さて、此処から針ノ木越えの佐々成正について語ろう。本能寺変後の信長亡き後、織田家の後継を羽柴秀吉と争う柴田勝家を親父殿と慕う成正であったが居城の有る越中は対上杉の最前線、勝家軍留守の上杉侵攻を阻む為に成正は富山城から動けず賤ケ岳の合戦には参戦出来なかった。

高度を稼ぐ毎に針ノ木岳南側斜面の素晴らしい岩峰、岩壁が近くなった。天正11年の賤ケ岳合戦は秀吉の圧勝、勝家は居城の北ノ庄城で自害した。戦後、成正は娘を人質に差し出し自らは剃髪して降伏、秀吉の温情で越中一国を安堵され首は繋がった。

苦しい登りだ、ダケカンバの木陰で立ち休憩を入れ振り返ると槍ヶ岳と穂高が見えていた。天正12年、羽柴秀吉対織田信雄・徳川家康連合軍との「小牧長久手の戦い」では秀吉の求めに応じ成正は兵700を送った。しかし、帰国した家臣の情報で秀吉の苦戦を知ると成正は反秀吉に寝返った。

目指す峠に山小屋が見えて近くなった。天正12年、反秀吉に転じた成正は窮地に有った。小牧長久手の戦いでの反秀吉派の勝利は局地戦の小さな一勝に過ぎず織田信雄は自領が攻撃されると直ぐ降参、家康も和議に応じ次男を人質に差しだした。孤立した成正は家康を翻意させるべくその年12月(旧暦)厳冬のザラ峠を下り黒部を横断、針ノ木越を敢行した。

針ノ木峠に到着、針ノ木岳から北に延びる後立山の稜線。天正12年の厳冬、窮地に有った成正は雪崩の恐怖を抑えてこの峠から扇沢へ下った。浜松へ着いた成正は家康との談判に挑むが翻意させることは出来なかった。決死の針ノ木越えは実を結ばず失意のうちに帰国した。翌天正13年10万の秀吉軍に包囲されて降伏、越中一国から東部の一郡のみ安堵され首だけは何とか繋がった。成正は秀吉の二度目の温情に助けられた。

撮影を済ますと山小屋でテン場の申請を済ませ缶ビールを購入、テラスから小屋以南の北アルプスの絶景を肴にビールで喉を潤した。その後の佐々成正は天正15年の九州征伐で功をあげ肥後一国を与えられた。しかし、領内統治に失敗、国衆の一揆を収拾できず筑前、築後の援軍を得て鎮圧したがその責任を問われ切腹、三度目の延命は無かった。浜松で家康の説得に失敗した時点で富山城に戻らず黒部に隠居しこの景色を眺める選択は無かったか?

ビールを飲み終える頃、本日、抜きつ抜かれつしたR大パーティーが登って来た。彼等は風の抜ける鞍部にテントを張りそうだったので安全な斜面下をアドバイスすると直ぐ受け入れた。このテン場、小屋主が造成したと思われサイト料1500円は良心的と思った。

午後やることも無く明日の天候も安心できないので針ノ木岳へ登ることにした。下山後に調子が良ければ蓮華岳まで足を延ばしコマクサ観賞も、明日の行程を楽にしようと思った。只、此処まで相当体力を消耗しており、ビールも飲んでいたのでどうなるやら、

針ノ木谷から山頂までの間に沢山の花に出逢ったので名前の知っている花を紹介しよう。写真はイワギキョウその他峠から山頂で見た花、チングルマ綿毛、アキノキリンソウ、ウサギキク、クガイソウ、ミヤマリンドウ、針ノ木谷で見たのはホタルブクロ、ソバナ、シモツケソウ、ハクサンフウロ、トリカブト、ベニバナイチゴの実(酸っぱかった)

いつの間にかガスが上がって周りの景色を隠していた。下山して来る登山者はいるが登っているのは小生だけ。ビールが効いたか早朝からの行動でスタミナ切れかしんどかった。

山頂到着、点名・野口、三角点標石柱は周りの石を除けると倒れるくらい不安定だった。ガスに包まれて山頂展望は皆無、黒部湖奥の背後に聳えているはずの立山と剱岳の景色を期待していたのに、黒部湖と針ノ木谷を見下ろし今山行の道程をじっくり眺めるはずだったが、

ガスに包まれた山頂滞在中は寒くてダウンを着込み過ごした。展望が効かねば長居は無用直ぐ下山した。調子が良ければ今日中に蓮華岳へも足を向けコマクサ観賞のつもりだったがガスがドンドン濃くなったので止めた。何となく嫌な予感がするガスの濃さだった。

8月12日 天候:雨風強い  
行程:針ノ木峠5:09 扇沢駅8:32

 昨夜21時頃にツウェルトに小さな雨粒を感じたが夜半になると本格的な雨となって風がツウェルトを叩いた。台風の通過のようだが台風17号は中国大陸へ向かっていたはずだ?帰宅後に知ったのだが台風15号が茨木県に上陸し日本海へ抜けていた。 鞍部から10m下のサイト地選択は大正解で吹き曝しに設営していたらツウェルトでは耐えられなかった。

今日は早起きして下山前に蓮華岳でコマクサ観賞の予定だったが、それどころではなくなった。先ず脱出だ!ヘッデンを灯してシュラフの中で下山路を地形図で再確認した。谷の増水が心配で此れから下る本谷や支谷の横断が心配された。しっかりした橋が有る谷はよいが普段水のない空谷がヤバイ。若い頃に穂高飛騨側の蒲田川右股上流や笠ヶ岳のクリヤ谷で事故の多かったことを思い出す。早く逃げねば。

朝飯は抜き、安全地帯まで下りて行動食で済ますと決めた。薄明るくなるのを待って先ずシュラフのチャックを開き雨具を着込み登山靴を履いた。これは狭いツウェルト内で衣服を濡らさぬ極意だ、若い日に冬山のテント生活で得た技術である。完全武装してからシュラフを袋に収納、ツウェルト以外の全てを整理しザックにパッキング、ザックカバーを掛けて外に出した。ツウェルトの撤収にはそれほどの時間は要しなかった。

風の抜ける鞍部には3張りのテントが飛ばされず残っていた。斜面下には4張りのテントが有ったがあそこは大丈夫だ。テント周りにも小屋周りにも峠にも人影は無かった。長居は無用、5時10分前、峠から北斜面を一気に駆け下った。

雨は降っていたが豪雨というほどではなく風も恐怖を感じるほどではなかった。砂礫の急斜面は浮石が多く又雨水で柔らかくなった地面は滑りやすく注意が必要で足元から目は離せなかった。斜面は経年の雨水で幾筋もの深い浸食溝を派生させ白く濁った水が勢いよく流れていた。普段は空谷と思われる谷も濁流が岩を噛んで白い龍が蛇行しているようだった。しかし、危険を感じるほどの渡渉は無かった。標高1900m辺りで1名、その後2名の登山者に続けざまに会って谷の状況と天気の情報を得て下山の確証を得た。

谷に架かる橋はしっかりしており安心して渡れた、森林帯に入ると風が消えたので行動食を摂った。大沢小屋の手前辺りで先ほどすれ違った3名の中の1人が引き返して来た「渡渉に危険を感じて中止した」と、若く逞しく見えたが・・・危険の感じ方はそれぞれだ。雨粒が小さくなる頃車のエンジン音が聴こえて扇沢が近いと知った。

佐々成正の浜松への経路には近年諸説あるようで①ザラ峠~針ノ木峠②安房峠③糸魚川の3説があるようだ。しかし、一旦秀吉に下った家康を翻意させるには決死の覚悟が必要で苛酷な厳冬の北アルプス横断は家康へ鬼気迫るアピールになったはずだ。それでも彼の思いは通じなかった。勇猛果敢な佐々成正のこと針ノ木峠を越えたと確信している。完