伝説の山岳古道を歩く・佐々成正の針ノ木越え(NO-1)2026.08.10~08.12

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【個人山行】黒部川~針ノ木谷~針ノ木岳(2,820.7m Ⅲ等△)富山県立山町・長野県大町市 NT

昭和50年二人の仲間と黒四ダムから黒部の水が鷲羽岳の雪渓へ消えるまで遡行し槍ヶ岳まで駆けた。当時、黒部の渡渉は足元のイワナを踏まぬ気遣いが必要なほど魚影が濃いと実しやかに聞かされた。だが黒部に入渓して3泊、設営地に着くや竿を振るうもイワナの塩焼きは幻に終わった。齢77才にて50年前の夢を追ってもう一度黒部の流れに糸を垂らしたい。今回は佐々成正が越えたとされる伝説の古道にも足跡を残したいと挑んだ報告である。

  • 日程:2026年8月10日~12日(月~水) 天候:8月10日 晴れ  
  • 参加者:単独
  • 行程:タイム 黒四ダム8:50 ロッジくろよん9:24 平ノ小屋13:53 平ノ渡場14:11 
    小南沢出合付近 15:45(泊)
  • 国土地理院2.5万図:野口

 扇沢・柏原新道近くの駐車場は全く隙間のないパンパンの満車、有料駐車場もやむなしと進むと係員に誘導された所が無料駐車場で十分過ぎるほど空きが有ってホッとした。そこから10分ほど歩くと駅舎へ続く坂道は黒四ダムへの切符を求める長い行列で有った。今日の行動計画が大幅に狂うがじっと忍耐、始発から1時間遅れのバスでダム湖の堰堤に立った。

ダムの湖面から水没を免れた深緑の山裾はこれから平ノ小屋まで私の案内をしてくれる歩道があるはずで南の最奥に赤牛岳2,864.3mの赤い山塊が大きく見えていた。

黒四ダムの堰堤に立つのは三度目である。昭和50年7月に個人山行で黒部川上の廊下から槍ヶ岳、翌8月に内蔵助谷・梯子段乗越経由で剱岳真砂沢定着夏合宿、八ツ峰、三ノ窓チンネでクライミング、成果を残した後に黒部川水平歩道を欅平へ下った。当時は現代のような放水サービスは無くとも観光客は多かったが外国人と言えば青い目をしていた。

堰堤を左岸に渡って橋からトンネルに入ったが迷路のように分岐が有って観光客と共に案内に導かれ進んだ。ケーブルカーの室堂行切符売り場を右に見て進むと人が絶えてダム湖左岸の遊歩道に出た。太陽が眩しかった。

「ロッジくろよん」を過ぎるとタンボ沢に架かる丸太組の橋を渡った。以後これと同じ造りの橋や斜面に掛かる丸太ハシゴを数えきれないほど越えるのだった。

湖岸の道は手入れが行き届いており歩きやすかった。さすがに黒部の奥地、1mほどもある大きなコブを付けた巨木のネズコ(クロベ)を道脇に見てシャッターを押した。50年前の上の廊下遡行時にも見ているはずだが全く記憶にない、脇目も振らず突っ走ったのだろう。

このブナもめちゃくちゃ大きく古木の雰囲気を醸していた。根元から1m50ほどの高さまで深い溝が筋肉のようにモリモリであった。50年前に彼等を見初めるには未だ未熟であった。

岩から大きく伸びたツガの巨木が道を覆いトンネルをつくっていた。これも全く記憶がない、平ノ小屋まで単調な水平歩行とばかりと記憶していたが案外変化が有ったのだ。

これまでも幾つか越えて来た湖岸の傾斜地や急登に掛かる丸太組の道、50年前の記憶を辿るが景色が浮かばない。平ノ小屋までの道すがら下って来る若者のパーティー6~7組とすれ違った。針ノ木谷の水量が気になって尋ねるが全て奥黒部ヒュッテからの下山者だった。

フイに目前の樹木が途切れてダム湖水面と遠くの稜線が見えた。若い頃は後立山に足が向くことが全く無くて周辺の地形に疎いが不動岳2,601mと思われた。

計画では平ノ小屋12:00に乗船予定だったが14:00発にようやく間に合った。扇沢駅で始発電気バスに乗れず1時間遅れたがそれより体力不足で早く歩けないのが原因だった。乗船時間ギリギリでビールを買うのを諦めコンクリートの階段を下りた。そこからは急な丸太の梯子を下って乗船した。丸太梯子の分だけ50年前より水位が下がったのだろうか?

渡船料が只なので乗客とは言えないがスタッフ2名に客3名だった。50年前はライフジャケットの着用など無く乗員は「乗せてやってる感」で威張っていた。その昔、ダムが出来る以前この付近は黒部平と呼ばれ越中と信濃を吊り橋で結んでいた。河原は温泉が湧き平ノ小屋は海産物や薬の運搬者、狩猟、釣り人、立山信仰の登山客が利用していたそうである。

舟が対岸に着くと湖岸の急斜面につけられた丸太の急階段を登ったが下船の際には「有難うございます」の言葉が自然に出た。尾根の水平道に着くと渡船の時刻表や登山の注意喚起看板が有り2人は右方向の奥黒部ヒュッテに向かい、小生は左方向の針ノ木谷へ向かった。

湖岸の急斜面は湖面迄切れ落ちており例のごとく丸太が組まれて導いた。おそらく針ノ木谷で登山者に会うことは無いと覚悟を決めた。平ノ小屋までの道中ですれ違ったパーティーは全て読売新道と奥黒部ヒュッテからの下山者で有った。

避難小屋に着いた。当初は此処で泊まることも一考したが明日の行程を少しでも楽にするために天気の良い今日は16時まで行動しようと決め素通りした。

この道はダム建設後の物で天正12年(1584)の佐々成正や明治初期の古道は河原を歩いていた。明治12年7月1日~8月7日の記録によれば越中へ404人、信州へ555人が黒部川を横断している。当時、平ノ小屋は道銭小屋と呼ばれ通行人から道銭を徴収しており我が国初の有料道路だった。しかし、維持費が捻出出来ず明治13年には廃道届が出された。

傾斜地を過ぎると支谷から湧き出た水が美味しそうで思わず手ですくって飲んだ。平地が次々に現れキャンプ適地と思ったが我慢した。明治12年の信州野口~越中原に至る道は当時の樵や猟師が使用の山道を牛が通れる道幅は9尺(2m70㎝)に拡張したそうだ。

針ノ木谷の瀬音が俄かに大きく激しくなって南沢の出合が近いと思っていたら丸太橋の対岸に6張りほどのテントと人を発見してビックリした。針ノ木峠へ登り切るまで人に会うことは無いと覚悟していたが人恋しくて若者に声を掛けた。彼等グループは明日針ノ木峠を目指すそうで他のテントは沢靴を乾しているのを見ると釣師と思われた。若者はテン場の仲間に迎えるもの言いだったが16時まで行動すると言いその場を離れた。

彼等と別れ踏み跡を追うと道は急に細く草が覆って今までとは一変した。やがて赤目印を追うと谷の横断にロープが張られていた。目を凝らして冷静に石を追えば飛石で靴を濡らさず渡れそうだ。沢靴は持参していたが履き替えの時間が勿体なかった。

更に2度の渡渉を飛石で越え左岸の小南沢出合下付近の林入口に今夜のねぐらを確保した。先ず、ザックから竿を出し釣の準備、餌はバッタを捕まえる予定だったが時間に追われ断念「カニ風味のかまぼこ」で代用した。日没に追われポイントを3ヶ所攻めたが全く「当たりなし」よく考えれば先ほどの釣り師達のテン場から20分ほどの距離である、昼間に攻められ荒らされているに決まっている。50年前の釣りの雪辱はここで諦めた

今山行はテントを省きツウェルト泊と決めた、シュラフは羽毛280gの軽量夏用を使用した。シュラフカバーでも充分と思ったが77歳の年齢を考えて自重した。NO-2へ続く